英語(English)に関するエッセイ


翻訳クラスの窓から

翻訳クラスの窓から 私は現在翻訳を生業としながら、大学の翻訳コースにも通っている。
カリキュラムという点からは正直なところ物足りないものがあるが、いろいろな人の意見が聞けるという意味では貴重である。

例えば、こんな先生がいる。彼女は英語を母国語とする日英翻訳の先生。日本の大学を含むいろいろな大学で学位を取得し、日本にも数年住み、日本企業で通訳翻訳の仕事もしている。が、彼女の授業は授業とはいえない。クラスの半分以上は私たちに課題を訳させ、その採点もいい加減。採点されても生徒はどこがどう悪いのか分からない・・・彼女は翻訳家としては素晴しいのかもしれないが、翻訳を教えることはできないのだなと感じた。

また、クラスメートですごく英語のできる人がいるが、彼の翻訳に対する意見はこうである。
「 自分はすごく自己主張の激しい人間なので、翻訳は向かない。自分の意見と違う人の文章など訳せないし、時には読んでいて激昂してしまうこともある。」 なるほどね・・・私はそれほど嫌だと感じたことがなかったので、そんな風に感じるんだ、とちょっと意外に思った。私は、人それぞれ意見は違うものだし、それを読んで訳すのは結構おもしろいなと考えているので・・・もちろんあまりにも差別的なものや思想的に偏ったものなどに対しては彼に同調するが・・・

とりわけ、痛切に感じ、また、不満に思っていることがある。このクラスでは 「 翻訳が職業である 」 ということに対する意識が全員高いという訳ではないことである。中には、「 他の授業は全部英語だけど翻訳クラスは日本語だから 」 という理由で単位を取りに来る学生もいる。私はこの言葉を聞いてかなりショックだったが、これが現在の 「 翻訳 」 の社会的地位を表しているのだなと痛切に感じた。つまり、英語を話せる多くの日本人は、 「 翻訳なんて簡単 」 だと考えているのだと思う。そして英語ができるから 「 翻訳でもやってみようかな 」 と考えて、翻訳業界に足を踏み入れる人もかなり多いのではないかと思う。どうも一般的に、 「 英語ができる=翻訳ができる 」 という図式がまかり通っているような感がある。これは残念ながら通訳や英語教師も含めて、英語を主体とする仕事に対する現在の通念であるという気がする。これらの職業はただ英語ができるだけの 「 英語屋 」 と思われ、あまり専門性の高い仕事だという見方をされてはいない。ゆえに誰にでもできそうだという観念が広まっているのだろうが、いざ本格的に取り組んでみると思うように行かない。それは当然である。これらはすべて英語ができるだけでは何とかならない、「 専門的な 」 仕事なのだから。クラスでも、もちろんそんなに簡単によい点が取れるはずもなく、課題に苦しむことになるのだが、みな 「 翻訳がこんなに難しいなんて知らなかった 」 「 翻訳を始めてから日本語の難しさを知った 」 「 言葉の選び方ひとつで文全体の印象が変わるなんて、翻訳の繊細さを初めて感じた 」 という言葉を口にする。原文の意味を損なうことなく、的確な表現を使用した自然な訳文を作るという作業は簡単そうに聞こえて実際やってみるとかなりの技術を必要とすることにみな初めて気づくのだ。

翻訳というものを知ってもらうという意味ではこのクラスはそれなりに意義のあるものかもしれないが、これではいつまでたっても翻訳に対する通念が変わらない。多くの人に門戸を開くことはよいことなのだが、それとは別にもっと専門性を追求するクラスを設ける必要があるだろう。技術レベルや意識の違う生徒が同じクラスで席を並べるというクラス構成は、教える側教わる側どちらにとってもあまり利がない。初めて翻訳に触れる人にはその魅力を伝えることができ、既に携わっている人たちにはその技術を高めることができるクラスを是非設けていただきたいと切に願う。 


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